物憑神:クロと主の話
自傷行為の描写があるのでご注意ください。
夕方の真っ赤な太陽が私の部屋を照らしている。薄暗い、赤い部屋の中でさび付いたカッターをぼんやり眺める。
こびり付いてしまった私の血が、ざらざらと黒く嫌な模様を形作っていて、なかなかに病んでいる物体になっている。元は、ただの百円の安っぽい文房具だったのだけれど。
赤く、鈍く光るそれを左手の甲に押し当ててみる。先端もすっかり錆びてしまって、私の手にカッターが刺さることは無く。そのまま手前に引いてみたけれど、白く一本線を描くだけだった。つまらない。けれど、そんなものだろう。また一つ、カッターを無駄にしてしまった。
どうしてだか、私はカッターを使った後に、それの手入れをした覚えが無い。実際していないのだろう。こうやって、どんどん駄目になったカッターが増えていくのだから。私は机の二番目の引き出しを開ける。そこにある木箱の中に、カッターを放り込んだ。木箱に今までためていた駄目になったカッターたちにそれがぶつかり、まぎれて、かしゃんと音を立てた。
私は適当な性格だから、今までも、今回も大体刃の部分を出したままカッターを木箱に放り込んでしまっている。赤黒い刃の中に、手を入れたらどうなるだろう? いや、結構力を入れてもちっとも肌は切れなかったのだ。手を入れたところで微妙な痛みを感じるくらいだろう。面白い結果も、苦痛も何も得られないだろう、下らない考えだ。そんなのは分かってる。分かってるんだ、けど。
気付けば私はぼんやりと木箱の中に右手を突っ込んでいた。ゴリゴリと肌を刃が圧迫する。しかしやっぱり、私の手に傷は一つもつかない。ああ、無意味なことをしているなあ。そう思い、私は木箱の中で右手をかき回す。がしゃんがしゃんがしゃん。五月蝿い音を立ててカッターがかき混ぜられる。混ぜるごとに、固まった血が削れているためだろうか、生臭い、鉄の香りがし始める。
酷くばかばかしい光景だ。何も産まない。ため息をついて、手を引き抜く。
「--っ、痛」
最後の最後に、私の右手の平に一本赤い線が引っかかれてしまった。ああ、痛い。思ったより深く切れたのだろうか。痛い。熱い。痛い。左手で右手を包む。ぬるりとした感触。気持ち悪い。痛い。
そのまま右手を首元に持っていく。べちゃり、ぬるり、とした感触、そのまま手を押さえつける。首元から赤い血が垂れていく感触。つぅ、と下に下っていく。そういえば、今私が着ているのは珍しく首元が開いている服だった。それにしても痛いなあ。どうしよう。それから、私の服は白い。もう、駄目になってしまったけど。襟元がまだらに赤くなってしまった。趣味が悪い。それは前から知ってるんだけど。いたいなあ。
じくじくずくずくと痛む手を首から離す。鏡に映った自分が視界の端に写っていた。首元が冗談みたいに赤くて、服も思ったよりべったり赤い。それから右手も左手も赤い。馬鹿みたいに赤い。馬鹿じゃないんだろうか。馬鹿だ、私は。
こんな状態、あの神様が見たらなんていうだろう。そう思ったのと同時に、私の部屋のドアが開いた。わあ、流石神様。私の疑問がすぐに解消されるなんて。そう思いながら、私は彼をボーっと見た。何もいえなかった。言う言葉が見つからなかった。それより手が痛いのが気になって仕方ない。
クロは、私を見て、びくりと体を震わせてから「な、」とだけ声を出した。な? 何を言いたいのだろう、と次の言葉を待つ。彼は少し震えていた。口を数回ぱくぱくさせてから、掠れた声で呟いた。
「なにしてんだ、あるじ」
「……痛いよ、クロ」
「ばかじゃねぇの……本当に、お前」
そこまで言ってから、クロは部屋を出て行った。それからすぐに救急箱を持って戻ってきた。箱を抱えて、ベッドに腰掛ける。そして馬鹿みたいに突っ立っている私をじっと見上げてきた。座れ、ということだろう。私は彼の左隣に腰掛け、ぎりぎり痛みが増してきた右手をそっと彼のほうに突き出した。少し動かすだけでも痛い。久しくここまでの痛みを感じていなかったから、頭も痛くなってきた。なんだかいっそ泣いてしまいたいほど苦しい。
ぬるり、と赤く染まった手をクロの手がそろそろと触れて傷口を彼に見えるように動かされた。そこまで来てから、私も漸く傷口をじっくり見ることになった。少し、血の出る速さは緩やかになっている。黄色い血漿が混ざって、たらたらとだらしなく溢れている。ううん、なんて趣味が悪い光景なんだろう。
クロは、無言でてきぱきと傷の手入れをしてくれた。消毒液が酷く痛む。思わず声が漏れて、手を引きそうになった。クロががっちり掴んでいなければ引き抜いていただろう。いたい、と主張すると当たり前だろ、とすげなく返されてしまった。確かに当たり前だけど。
クロの指先も赤く染まりつつ、私の右手は包帯をぐるぐると巻かれて白くなっていく。痛いほどに包帯を巻かれた。しばらく曲げられない。
最後にぱちん、とテープをはさみが切った。
強く掴まれていた右手が開放されて、私はぼんやり包帯に巻かれた右手を眺める。もうちょっと握ってくれていたっていいのに。クロが握っていたところと傷口だけが、熱い熱を持っている。あとは冷たい。寒い。
しばらく互いに無言だった。怒ってるな、クロ。こういうときに黙っているクロは、怒っている。口が下手だから、どう怒っていいのか分かってないから黙ってしまう。クロはそういうタイプだ。まあ、私を見捨てている可能性も無きにしも非ずだけれど、そういう場合は手当てもしてくれないだろうから、きっと今回は違う。……なんて、ただの私の希望でしかないのだけれど。
いたいなあ、右手。そう思いながら、私も黙っている。口下手なのは、私も同じだ。
「主」
「うん?」
突然呼ばれて、顔を上げる。そしてクロの方を見た瞬間、体に衝撃を受けた。その勢いのまま私はベッドに上半身を横たえる。何が起こったのか、一瞬理解できなかった。目を白黒させながら何とか状況を把握する。クロが、私に抱きついてきた勢いで、どうやら倒れたらしい。……何で?
混乱しながらがっちりと私に組み付いている神様の背中に手を回した。右手に激痛が走る。けれど、身もだえも出来ないくらい、私は彼に固められている。仕方ないから、左手で彼の背をぽんぽんとさすった。クロが小さく声を吐く。
「こえぇよ、お前」
「……ごめん」
「何で首、赤いんだよ。一瞬、首にカッターつきたてたかと思ったじゃねぇか」
「ちょっと、触ったから」
「ちょっと! ……は、ちょっとであんなべったりつくかよ」
クロの声が耳元で震えた。吃驚して、また「ごめん」と謝るとクロが頭を振った。謝るな、と抑えるような声で言われる。お前の謝り方は、怖いから嫌いだと続いた。それから、私の肩に顔をぎゅうと押し付けてきた。彼の震える吐息が耳元を掠めていく。泣いてるのだろうか? まさか。
苦しそうにクロは私を抱きしめている。暖かい。手のひらは痛いけれど、幸せだ。苦しいほどに。泣きたくなるほどに。幸せだけど、酷く辛い。ああ、手放しで彼が私をもしかして、愛してくれているのかもしれないというぬるい考えに浸ることが出来たらどんなにか幸福なことだろう。
いっそこんな勘違いするようなことはしないで欲しい。愛されているのかと、馬鹿な考えがよぎることも無く、もっと乾いた関係でいられたらそれはそれできっと、寂しいけれど苦しくは無かった。幸せでもなかったけれど、こんなに心にカッターを突き立てられることは無かった。
クロが小さく身をよじって、さらに両腕に力を込めてきた。ああ、だからそんな強く抱かないで欲しい。クロ、ねえクロ、苦しいよ。息が詰まるよ。馬鹿な勘違いをしてしまうよ。どうか突き放して、こんな愚かな私を嘲笑って。こんな優しい扱いをしないで。幸せで困るんだ。泣きたくなるんだ。これだけのことで。たったこんな、こんなことで。私は、貴方に。
(愛されているような気がしてしまう)
2013:0326
昔の主とクロの小説を読んだら吃驚するほど主が自傷癖全開でビビった記念。嫌な記念だ。
愛されてるのに、それを頑なに信じない主と、言ったら余計に勝手に傷つきそうだから怖くて愛してると言葉には出来ないクロの話。
時系列的には、終焉に手を噛まれる話より大分前だと思われる。
確かに恋だったさんの「愛されているような気がした」というお題を使わせていただきました。
ちなみに作業BGMは鬼 束 さんの「陽炎」。